しかし、4月の時点で異母兄・徳川慶喜からパリに留まり勉学に励むようにと手紙が送られていたため、徳川昭武はパリに滞在しました。
木々に目をやると、枝ぶりが独創的だ。
公家出身ということを考えると、徳川斉昭正室・吉子女王の侍女、もしくは斡旋で側室になったのかもしれませんね。
一方、昭武と共に渡欧した渋沢栄一ら使節団の人々は、ヨーロッパの最新の知識を持ち帰り、明治維新後の近代化に大きな足跡を残すことになるのです。
八重は早世した長男、三男を含め三男三女と多くの子供を産みました。
長女・昭子は伯爵・松平頼寿と結婚しています。
戸定邸と松戸神社を訪ねてから半年後。
同年5月に昭武は隠居し、甥の篤敬に家督を譲っています。
1869年(17歳)第11代水戸藩主に就任。
そして隠居後、生涯の住まいとしたのが、松戸にある戸定邸だった。
パリ万博で日本の出展物は多大に評価されることに。
ベルギー国王 レオポルド1世を始め、それぞれの国の国王と謁見をし、パリにて、留学生活を送っていたそうです。
ココアをはじめて飲んだ日本人 昭武は留学中に日記をつけていました。
明治43年(1910年)死去。
その使節団を率いるのが、将軍に就任した徳川慶喜(草なぎ剛)の名代を務める弟の徳川昭武だ。
徳川昭武の母:秋庭(万里小路睦子) 公家の大納言・万里小路建房の六女で、睦子という名前です。
拝殿の軒下に掲げられた弓矢。
getElementsByTagName "body" [0]. 元々は中庭に置かれていて、金魚や睡蓮を育てていたのでは? と推測されている。
当然、庭園の作庭や木々の形にも昭武の手が加わっている。
山門手前左手の大木は、昭武時代のものとは、樹形からして異なるようだ。
清水徳川家 清水徳川家は江戸幕府9代将軍家重の次男重好を家祖とする家である。
半年寝かせたのには理由がある。
昭武撮影のカットをよく見ると、仁王門の間にかすかに、本堂らしき建物の影が見える。
もともとが尊王ですからここは慶喜と同様におとなしくしているのが賢明ですよね。