クーデターは 12 月 4 日の郵政局開局の祝宴に政府要人が集まることを狙って実行に移された。
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福澤諭吉の結論は単純明快。
「出兵すると申しても、これは清国の滅亡を望むものではない。
註 5 論者の知るかぎり本評論のセンセーショナルなタイトルではなくその中身に注目しているのはとしかない。
脱亜論とは? (明治15年3月1日に発行された時事新報 出典:) 脱亜論(だつあろん)とは、 1885年(明治18年)3月16日に掲載された新聞社説 評論 のことです。
福澤諭吉は正しかった? ただ、この脱亜論が正しかったのか否かについてはどうでしょうか? これは人によって考え方が異なるでしょう。
福沢の著述の眼目は『文明論之概略』にもある「日本には政府ありて国民(ネーション)なし」(、p154)という現状を打破することで、西洋社会の理論は国民国家の創造のために活用されるのでなければならないのである。
福沢は、アジア東方の友人を悪友と断じ、決別を宣告する。
かなりの長文、 言葉使いも全く異なるため、読むのにはやや苦労するかも知れない。
こうした章が設けられているために彼もまた凡百の欧化論者と一緒にされてしまうことがあるが、そこにある西洋批判は現実の欧米をじかに見聞したもののみが持ち得る説得力を有している。
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「侵略戦争に熱狂するファッショ的国民」とまでいかなくとも、「軍部にだまされた愚かな日本人」とも見る人もいるだろう。
(日露)戦後すぐにロシアと提携しての満州における権益拡大、韓国併合へと歩み、日英同盟や日仏協約によってインドやベトナムの民族運動家たちは国外退去処分を受ける。
編者の富田正文と土橋俊一が石河編の正続全集を合わせてさらに増補した現行版である。
国内での自由民権運動には直接の支援を行わなかった福沢であったが、朝鮮独立党の閔氏政権転覆の計画については早い段階から関与していた。
日本の植民地支配の悪を見せつけられることになる日本人青年を気遣っての言葉であろうが、実際、客観的には正しいのだからその通り受け取ればよいとも言える。
かなりの長文、 言葉使いも全く異なるため、読むのにはやや苦労するかも知れない。
とはいえ、この福沢像は必ずしも丸山に起源をもつものではない。
そもそも福沢は、国民が自らの都合でその時代にもっとも適した政府を組織するなら、いかなる政権交替も国体の変更ではなく、むしろ好ましい改革であるとし、逆に外国人による支配にあっては国体の失われた亡国の悲劇であると考えていた。
結局、日本にとって日韓併合が大失敗だったということになるのでしょうが、韓国(朝鮮)にとっては1910年の併合から2010年までの100年が最も豊かな時代だったと、後世の人々は思うのかもしれません。
85年3月16日には ゆきち が『』ので「脱亜論」を発表し、「我国は隣国の開明を待て共に亜細亜 アジア を興すの猶予 ゆうよ ある可 べか らず、寧 むし ろ其伍 そのご を脱して西洋の文明国と進退を共にし、(略)亜細亜東方の悪友を謝絶する」と論じた。
代表例は開化派(維新と読み替えてよいと思う)の金玉均。
福澤はこの人から朝鮮への理解を深めていくこととなります。
以前までの米国を基軸としつつも中国などアジアの顔色もうかがうといった「曖昧さを脱する外交」だとされた。
日本という民族、日本国の運命を自己の運命問題として意識する日本人が生まれた。
「」(『時事新報』明治18年(1885年)8月13日)• 一九四一年一二月八日、真珠湾奇襲攻撃による対米戦争開始の報を聞いた国民の「ナショナリズムの熱狂」はどうだったか。
Youtubeで、朗読形式の脱亜論を視聴したことはありますが、小坪先生に紹介していただくまで、全文(きょうと明日の2回にわけてアップされる)に触れたことはありませんでした。
戦後六〇年を結束する一二月、東アジア共同体構想を具体化するための第一回東アジアサミット(首脳会議)で小泉首相は次の二点を強調した。
例へば支那朝鮮の政府が古風の専制にして法律の恃む可きものあらざれば、西洋の人は日本も亦無法律の國かと疑ひ、支那朝鮮の士人が惑溺深くして科學の何ものたるを知らざれば、西洋の學者は日本も亦陰陽五行の國かと思ひ、支那人が卑屈にして恥を知らざれば、日本人の義侠も之がために掩はれ、朝鮮國に人を刑するの惨酷なるあれば、日本人も亦共に無情なるかと推量せらるゝが如き、是等の事例を計れば、枚擧に遑あらず。
日本の資本主義の発展は、この島帝国を西欧列強と同類の野心をもってアジアに立ち向かわせはしても、アジアの味方、いい換えれば、帝国主義下の被圧迫諸民族の味方にはしなかった」と。
福沢諭吉 「脱亜論」『福沢諭吉選集』第7巻、 解説、岩波書店、 1981年3月25日、221-224頁。