廃寺通告を受けるも、その地で1879年(明治12年)より再興していった。
大塔(10番切幡寺)• その後も再開が広がり、6月1日より全札所は元通りに戻った(霊場会公式ホームページより)。
木造月光菩薩立像(24番最御崎寺)漆箔、像高101. 0km 前後の札所とその距離 <<<【約 3880m】>>>1霊山寺<<<【約 1400m】>>> 解説 奈良時代、天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により、行基によって開創された。
(大量の材木を積んだトラックもやってきたので林業関係の車も利用している模様) ただし神峰寺同様、眺めは最高。
金堂:附棟札1枚(75番善通寺)• 四国の遍路道を徒歩練行一行が歩む 空海(弘法大師)が42歳のとき四国を巡錫したとされる年を起点に1200年目に当たる2014年に、各寺院が普段は公開されない秘仏の本尊や秘蔵の仏像を公開したり、本堂や大師堂の開扉や入堂が許されたり、特別法要や公演が行われた。
(県指定の史跡)弥谷寺信仰遺跡:賽の河原、獅子窟、比丘尼谷の磨崖仏、比丘尼谷の墓地大小無数の五輪塔 [72番曼荼羅寺]• 以上の番外寺院についてはこの一覧には掲載しない。
二王門(52番太山寺)• 四国八十八箇所の歴史は古く、平安末期から修行僧らがこれらを修行の場としたり、88箇所をめぐったりしたのだと言います。
近代以降、四国遍路は様々な場面で取り上げられることとなった。
(県指定天然記念物)境内の大グス - 東院の五社明神の後ろの楠 [78番郷照寺]• 歩き遍路は朝早くに出て、夕方までには宿に着くのが基本である。
0cm、後期作• 55番札所: が札所であったが、本地・大通智勝如来像は別当寺の薬師堂に移り札所も当寺に移る。
仁王門• ちまたのドライブガイドでは、ほんとうに自分の車で行きましたか? 大師堂• 8cm、平安時代後期作• 自転車での巡礼 [ ] 自転車を趣味とする人や、歩きでは時間的・体力的に無理でも自分の力で巡礼をしたいという人が自転車を利用している。
車の運転に慣れた人を必ず連れて行きましょうね。
0cm平安後期作• 6cm、一木造、鎌倉時代中期• 遍路の中には先を急ぐあまり夜間も歩こうとする者がいるが、のない遍路道も多く、遍路道しるべを見逃して、現代においても事故が発生 している。
ちなみにグランツーリスモSPORT、Granturismo6はオールゴールドの運転好きです。
9cm、室町時代作• 木造頓證寺勅額(81番白峯寺)• 木造薬師如来坐像(24番最御崎寺)漆箔、像高86. 木造吉祥天立像:台座も含めて榧の一木造り、像高44cm、台座6cm、平安時代作• 雨期には冠水する場合もあり、夏季はが多い。
四国霊場会は六十二番札所のの住職が同会に入会せず会則に従わなかったため、宝寿寺の住職に対して2015年3月ににを起こしたが、霊場会が敗訴した。
当日は車が少なかったのが幸い。
大師堂 [21番太龍寺]• 今では車道の整備が進み、ほとんどの札所で境内に隣接した駐車場まで行けるようになり、太龍寺と雲辺寺ではを、八栗寺ではを、弥谷寺では送迎バスを利用することができ、境内まで徒歩が必要な区間が長いところは、約20分かかる焼山寺と横峰寺、約30分かかる岩屋寺くらいになった。
酷い) そのくせ有料道路とは思えない酷い道です。
大師堂:寛政7年(1795年)作、明治16年改修、入母屋造屋根の三間堂• に入ると、(1178-1252年)が『南海流浪記』に、空海遺跡を参拝したことが書かれており、(1239-1289年)も遺跡を廻ったことを記載する。
13番札所: が札所だったが、・を別当のに移して本尊とし、当寺が札所となる。
茶堂の例(。
その後、境内にある納経所にて、持参した納経帳ややに、札番印、宝印、寺号印の計3種のと、寺の名前や本尊の名前、を表すの種字などを墨書してもらい、各寺の本尊が描かれた御影(おみえ)を頂き、納経料を支払う。
ただし、66番雲辺寺は、行政区画上は徳島県に属する。
絹本著色地蔵来迎図• 寺号とは別に通称の寺名のあるところ。
例を挙げると、52番太山寺では9町6反余の広大な寺領が12余に、50番繁多寺では4町8反余が4反余とされた。
近年は順序にこだわらず打つことを「乱れ打ち」という。
5cm、鎌倉時代作• 「同行二人」は参拝の道具にも記されている。
自転車を使ったいわゆる「チャリンコ遍路」も増え、関連書籍も発売されている。
5cmの掛軸仕立、鎌倉時代作 [52番太山寺]• このとき、それまで全寺院が協力して何かを成し遂げることなどなかったが、初めて全寺院が団結してを成功させた。
詳細はを参照。
公認金納札と金色のバッジ 札所などにお参りし、納経した証に収める札。