『幕末遊撃隊 伊庭八郎』()• どちらも読みやすくて読み応えのある作品です。
(『江戸の武士 伊庭想太郎』のように、想太郎も脱走軍に参加して大活躍! という話も時々残っていたりしますが、まぁフィクションでしょう) しかし、田村らの話を100%鵜呑みにして良いかと言えば、そうではなく、 やはりできるだけ他の史料を発掘して、考証していかねばならないと思います。
イケメン以外に共通点はなさそうなのですが、八郎は、「試衛館」にもよく顔を出していたようです。
幕末初心者はもちろん、学び直しにもぴったりです。
もちろん榎本もまたこの周辺に屋敷を持っていました。
想太郎は中根の元で学んでいた時期があったと記憶しています。
とりあえず伊庭八郎を通して幕末・維新の志士といわれた人たちの夢と野望そして愛を描いてみようと思った次第であります。
さて、実際は孝さんはどこからその話を聞いたのか? 坂田鎌吉? 想太郎の部屋の壁に飾ってあった、という八郎や子弟の写真ですが、 正直、読み方によってはどういう風にでも解釈できてしまうような文章です。
その姿勢は、彼の祖父(三橋成方「菜の花の沖」)、弟(伊庭想太郎「」)、住居の場所(「胡蝶の夢」)までも自身の作品内でとりあげているにもかかわらず八郎のハの字すら触れない、その徹底ぶりからも窺い知れる。
現代にはお殿様や主君がいるわけではないので、少しわかりにくいかもしれませんが、自分たちの祖先がずっと仕えてきた主君を裏切ることなど決してできない、負けると分かっていても戦い続けるというのは、それだけで勇気のいることです。
伊庭の斬撃のすさまじさが伝わってくるような気がします。
相手は20数人いると思われましたが、わずか5人ほどだった近藤たちは、ひるむことなく捕縛にかかりました。
伊庭八郎の箱館戦争での負傷の、「肩から銃弾が貫通」のフレーズが 以前見たことがあるような気がしたので、久々に『伊庭八郎のすべて』 を借りてきて、八郎の最期に関する様々な人物が残した伝聞を集めた部分を 読み直しました。
しかし、16歳の頃から始めた剣術では、その才能が次第に開花し、めきめきを腕を上げ• またその人気は、明治政府にとっては敵方だったにもかかわらず、(今で言う)が作られるほどで、「」でこのエピソードが語られている。
西澤朱実氏による「伊庭八郎の最期」の項の、 「史料に見る伊庭八郎の最期」の部分です。
徹底抗戦を主張し、隻腕でありながらも遊撃隊を率いて奮戦したが、で胸部に被弾した。
隻腕の美剣士として知られ、そんなハンデを背負いながらも勇ましく戦う姿は、想像するだけでも感動的です。
『松前の花(旧題『美姫血戦』)』『土方歳三』()• 『雨に紛う』(真野ひろみ)• 道場破り対策で助太刀も兼ねていたらしく、道場主の近藤周斎のお気に入りだったとも言われている。
この本片手に八郎の歩いた道をたどってみると、 面白い歴史めぐりができそうですよ。
秀業の養子としては八郎の義兄にあたるが、八郎を養子としたので義父でもある。
その戦いぶりは、薩摩藩の名将・野津鎮雄をして、「幕軍さすがに伊庭八郎あり」と感嘆させるほどのものでした。
その結果、明治維新が1年遅れたという説も出るほどです。
それでも、まだ右手が動くと言って3人の敵を殺したうえ、その勢いで岩まで斬ったという伝説も残っています。
- 父方の実の祖父。