また、服装だけに限らず、西洋風のおしゃれな建物などに関しても、ハイカラな建物と表現したりすることもできます。
女性も少しずつ教育を受けるようになった大正時代、まだまだ花嫁学校のような立ち位置とはいえ従来の着物よりも動きやすい袴スタイルが流行しました。
さて、そんなおしゃれな縄文人たちの髪型はというと、糸を使って髪をまとめた「結髪」が多くみられます。
当時は「断髪」と呼ばれ、 今では想像もつかないくらい勇気がいることだったそうです。
七三分けにすることで、おしゃれな印象なども与えながら、それでいて清潔感を与えることもできるようになっています。
大正時代はまだまだ着物の人の方が多く洋装は流行に敏感で裕福な家の人が着るものでした。
元々大正ロマンとは19世紀を中心にヨーロッパで展開した精神運動であるロマン主義の影響を受けている存在だと言われています。
最終的には中国政権にこの要求を認めさせ、中国国民の反発とアメリカの対日感情の悪化を招き、日本への警戒心が強まる結果となります。
当初は町娘の着流しスタイル(和服に丸髷)でしたが、椅子に座り授業を受ける際、裾が乱れるとの理由で、男袴の着用が強要されました。
また、サロンでは大正ロマン風なインテリアやテーブルコーディネートもご用意しています。
一見、現在の着崩しに通じる弊衣破帽、腰に汚い手ぬぐいをぶら下げ、下駄にぼさぼさ髪の学生が多かったのは、虚飾を排し内面の充実をめざす心意気を、外見で表現しようとする、エリートゆえの屈折表現だったようです。
しかし着物の女性にも大正時代のモダンなファッションは影響しており華やかで大きな柄の銘仙着物が大流行しました。
ヒゲを伸ばしたいかめしい男性、私の祖父の若かりし頃の姿です。
「大正」という元号は、中国の古典『易経』のなかの「大亨以正、天之道也」が由来です。
当時は記念撮影がほとんどであり、正装をして構えて撮影しています。
ただ、洋装は理念先行だったため簡単には広がりませんでした。
ちなみに井ノ口阿くりは、日本女子体操教育の母と呼ばれています。
同じように個性豊かな古代人の装いに興味を持ったという方、全国にはさまざまな遺跡や博物館、体験施設があります。
秋の日和で、午後の放課後であった。
ワシントン会議を通じて築かれた戦後の国際秩序を「ワシントン体制」と呼びます。
先ほどもお伝えした通り、大正ロマンの服装や髪型などに関しては男性と女性で大きく異なるようになります。
現代においてどのようなブームがあり、実際に大正ロマンではどのような変化があったのかということを重ねながらチェックしてみてください。
もともと私たち日本人にとって帽子といえば、昔から親しまれていたものは烏帽子や頭巾などが一般的でした。
それまでの日本と大正ロマンが始まってからの日本とでは全くファッションや髪型などは異なり、どちらかといえば現代に近くなったといえます。