1572年になると、松永久秀も足利義昭の呼びかけで織田信長包囲網に加わります。
久秀は、三好氏の重臣でありながら幕臣であるという側面も持っていたのです。
『松永弾正』(1998年、読売新聞社)• その際給仕したのは、それらの武士の息子達で、デウスのことについて良き会話を交えたり歌を歌ってその日の午後を通じて過ごした。
久秀が三好義興を毒殺したというのは冤罪ですが、主君である長慶の不安定な心を利用し、結果死へと追い詰めたのは事実のようです。
が、肝心かなめの「三好長慶を裏切り、死に追い込んだ」という部分に関しては、有力な証拠が全く残されていないのです。
1565年になると、三好義継と三好三人衆、そして松永久秀の子の松永久通が足利義輝を暗殺し、第14代将軍として足利義栄(あしかがよしひで、1538年~1568年)を擁立します。
。
信長との同盟 この戦いで久秀は三好氏だけではなく周辺の諸国大名に警戒され、居城である多聞山城を監視されることになり、このようなピンチを打開する為に、久秀は新たな手を打ちます。
元亀2年(1571年)5月、将軍の仲間だった畠山秋高の家臣安見直政を松永久秀が自害させると、義昭は久秀の所業に幻滅し、久秀と領地を争っていた筒井順慶側につきます。
茶器の名器といわれ、織田信長も欲した平蜘蛛。
天文9年(1540年)6月9日、長慶が用の千句田二段を門前寺院の円福寺、西蓮寺、東禅坊の各講衆に寄進する内容の書状を33歳の久秀がの官名で伝達している。
ゆえに、京都の貴族たちであっても、戦争の様子は「風のウワサ」程度でしか知ることは叶わなかったのです。
胴部の丈が低く、口が広いのが特徴である。
当時の畿内の日蓮宗()の教義からすると、キリスト教のみならず他宗一般に対する彼の態度が否定的なものであったことは容易に推定される。
これは。
ふたつの城を築城する際、領民が納めた串柿の串を城壁の芯に使ったり、空の酒樽をばらして板塀に使ったり、鉛で庭石を作っておいて、いざ戦争になったら鉄砲玉に作り直して使おうとした、というエピソードがあります。
そして同年11月に滝山城から大和北西のに移って居城とする。
またこの年の時には岐阜に滞在しており、事件の際には信長と共に上洛し駆けつけている。
『三好長慶』、2014年。
織田信長との関係 将軍となった義昭の政権は、 有力な大名たちによる連立政権であったと言われています。
一方で、久秀の首と平蜘蛛は、鉄砲の火薬で木っ端みじんに砕かれたという説もある(『川角太閤記』)。
しかし 久秀は信長に自分の娘を人質として送ったり、超高級な茶器を送ったりと異様なまでに気を遣っています。
今回は久秀の革新性と教養の高さなどに注目して紹介してみましょう。
家宰 後の家老のような役割 になった松永久秀は、三好氏の勢力伸長のため各地の戦に臨むようになります。
永禄7年()、三好長慶の弟であるの死去により 、三好家では久秀に並ぶ実力者は、阿波で国主を補佐していたのみとなる。
将軍・義輝への謀反 そして永禄8年(1565年)5月19日、久秀と三好三人衆は二条御所を攻め、 将軍・足利義輝を殺害します。
秘密裏に同盟を組んでいた武田信玄が病死しており、久秀側の援軍が来ませんでした。
その頃、義昭も同じく信長に対し敵意を表しており、ついこの間まで敵対していた義昭と久秀がタッグを組んで信長と戦いますが、敗退します。