始め、死して停喪すること十余日。
木弓は下を短く上を長くし、竹箭(チクセン)はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり。
では、邪馬台国論争はここでおしまい?いや、あきらめるのはまだ早い。
計其道里、當在會稽東冶之東。
千余戸有り。
ただし、それ以前の、東晋の義煕九年(413)にも、王名を欠いた倭国の遣使が記録されています(晋書安帝紀)。
屋室有り、父母兄弟、臥息 がそく 処 ところ を異にす。
その上表文には、「辭に勸誡多く得失は明らかにして風化に益有り。
次に伊邪国有り。
土で封じ冢を作る。
190年遼東では公孫度が平州牧 (牧は地方長官) を名乗り独立。
太守劉夏、使を遣わし、将(も)って送りて京都に詣らしむ。
宗族には尊卑の序列があり、上のもののいいつけはよく守られる。
更々 こもごも 相誅殺 あいちゅうさつ し、当時千余人を殺す。
南至投馬國、水行二十曰。
二千戸ほどある。
但し、「南宋代の知識」によってあちこち改訂されている節があり、原形をどこまで留めているのか疑わしいとされている。
次にシハクシ国がある。
ここは、後漢書が没から滅に訂正したか、魏志倭人伝の伝写間違いのどちらかと考えられます。
次にド国がある。
卑弥呼が死んだ。
帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓 国 (馬韓?) を経て、時には南行し、時には東行し、その北岸 (?) 狗邪韓国 (くやかんこく) に到る。
女王国より以北には、特に一大率 いちだいそつ を置き、諸国を検察せしむ。
次に鬼國有り。
倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。
此れ女王の境界の尽くる所なり。
中国のように銭を用いて買う。
倭人伝をまともに研究しようとすると、おそろしく膨大な時間と資料を必要とするのである。