、初代藩主。
より多くの武功をとなれば、より勇猛果敢な家来を囲いこまなければならない。
「速やかに御出馬ありて賊徒を退治じたまわんにおいては、まず掛川の居城を御譜代の士に渡し、また人質をも奉るべし」と。
しかし一豊や田中・中村・堀尾ら配下の大名衆は、秀吉の命令を遂行して秀次らを取り調べる立場となり、秀次の処断の後で逆に遺領から8000石を加増されている。
また、翌12年()のでは、秀吉の命で、家康を包囲するための付城構築の作業に当たっている。
築城奉行は、関ヶ原の戦いの後に浪人となったを7000石で招聘して任じ、慶長8年()に完成した。
山内一豊は、「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ:豊臣秀吉の甥)を総大将とする軍勢に加わり、後北条氏が本拠とする「」(現在の)の支城「山中城」(現在の)を落城させることに成功。
妻に遺言を残すほど追い込まれていたのである。
全く別のモノにすり替わることもしばしば。
この短刀には、山内一豊が遠江国の掛川城主だった頃の言い伝えが残されています。
家康の目論見通りなのか、石田三成が畿内で挙兵。
秀吉の後継者のはずだった秀次が謀反の疑いで切腹 こうして秀吉に認められた一豊は、秀吉の養子で後継者であった豊臣秀次の後見人をすることになりました。
(2012年、カプコン 一豊:、千代:) ラジオドラマ• 土佐国では「長宗我部氏」(ちょうそかべし)の旧臣達による抵抗が根強かったため、山内一豊が工事の視察に出かける際は、同じ服装の家臣5人を、自身の影武者として連れて歩いたと伝えられています。
関ケ原では家康率いる東軍へ 秀吉が亡くなったあとに起きた関ヶ原の戦いでは、時世を見て家康の東軍に参加。
天正11年()、禁野(禁野本町あたり)に361石を加増。
「いつもは律義者なのに、今日の山内一豊は違ったなあ」 堀尾忠氏も山内一豊も大笑いしたそうな。
関ヶ原の戦いに際しては、大垣の城兵を拒ぐ功をたてた。
江戸時代中期の歴史書である。
これは諸説の最大公約数のようなものだが、山本さんも指摘するように、もともと名馬を買ったという事実そのものが当時の史料に出てこないのだから、これ以上とやかく言うのはヤボというものかもしれない。
いや、それ以上。
こうして中国各地を転戦しながら、数々の武勲を挙げた山内一豊。
ある程度の武将となれば、自腹で家来を召し抱えるのが一般的。
「猪右衛門(一豊)小身の時に北国人の催促有りしに、手前すりきり故に軍役等ととのはず難儀いたし、是非なく切腹せんとて内室(妻)へ遺言などせられけるに、内室いかがせんと思ひ煩ひけれどもすべき様なくあきれ果てゐられけるが、ふと思ひ出したる事有り。
天正元(1573)年、越前(福井県)朝倉氏と戦った「刀根坂(とねざか)の戦い」では、顔に矢が刺さりながらも、敵兵を討ち取り、400石を与えられている。