しほ合を御覧被成、大音声を揚られ、真先江御進出、御下知被成候付、御味方勢ひ懸り、修理備敗軍仕候。
家康もかつてこの騎馬隊を相手に敗れた経験があります。
「家康物見塚」 織田信長も、弾正山の徳川本陣の北側(武田勝頼の正面)まで出てきて、千丁(後に加筆して「三千丁」)の鉄砲隊を指揮する5人の鉄砲奉行の采配を見物したという。
武田軍は、15,000人もの兵を率いて長篠城を包囲。
) 若さ故、浜松城を飛び出して三方ヶ原で武田信玄に打ち負かされた徳川家康は、若さ故、設楽原に攻め入った武田勝頼を打ち負かした。
ここから戦闘は本格化、 信長公記によると9月12日には、雑賀・根来の鉄砲兵3000を含む2万人の連合軍が、 遠里小野 おりおの 、住吉、天王寺に陣取り日本史上最初の大規模な銃撃戦が始まりました。
徳川忠長の正室は、織田信長の孫・織田信良の娘)の所持刀とされているが、創作であり、徳川忠長には子はいなかったとされる。
兵力差が2倍以上あり、さらに地形を考えた強固な馬対策(防御柵)が成されているのです。
長篠の戦いの真実は、武田勝頼を騙した織田信長の巧みな策略がありました。
それも信長の計画通りでした。
この地を守っていた徳川家康は、なんとしても武田軍を阻止しなくてはなりませんでした。
「三方ヶ原の戦い」の時も、織田軍の軍監・平手汎秀、佐久間信盛、水野信元がいたので、徳川家康は、武田信玄と戦わざるを得なかった。
) 長篠での大敗で、武田軍の力は衰えたが、(三方ヶ原での大敗後の徳川家康のように)武田勝頼は、体制の立て直しに成功している。
この強右衛門という男が伝令係 貞昌と家康との連絡係 だと勝頼が知ると、勝頼は強 右衛門に「長篠城にいる兵たちに向かって『織田と徳川からの援軍は来ない』と言っ たら命を助けてやろう」と言います。
「長篠城」が織田徳川方に押さえられていたため、 武田軍は退路を断たれた状態だったのです。
勝頼は決して、鉄炮を軽視してはいなかったのだ。
勝頼自身はわずかな兵とともに帰還できましたが、武田氏の武力はいちじるしく低下してしまいました。
また、「武田軍には騎馬隊がなかった」(注1)という話を聞いたりすると、柵を築いた目的が分からなくなります。
後方を攪乱 かくらん された武田軍は設楽原決戦を挑み、を中心に次々と攻撃をかけたが、馬防柵に妨げられ、信長の側近部将が指揮する鉄炮隊の迎撃を浴びて多数の将士を失った。
以後、織田信長に警戒される!) さて、徳川・織田連合軍は、徳川軍8000人+織田援軍3万=38000人で、15000人の武田軍を「逆包囲」(味方の城を包囲した敵を包囲する作戦)すると思いきや、長篠城から離れた弾正山(注2)に陣城を築き、織田信長に至っては、さらに遠く離れた極楽寺山(注3)に本陣を置いた。
だから、武田の重臣の中には勝頼が当主になるのをよく思わない者も多かったのです。
現代ではしばしば用いられるCG技術に頼らず、膨大な数のエキストラを動員して構成された迫力の実写映像は、まさに圧巻といえます。
これは信長が貿易港「堺」を押さえていたからできたことなのです。
では、なぜ、長篠城を城主・奥平貞昌(貞能の子)が武田勝頼に渡さなかったかといえば、次の3つの理由が考えられます。
刀剣巡りができる大阪城などに加え、大阪府周辺の地域で刀剣を所蔵・展示している施設も合わせてご紹介します。
確かに、信長は3000丁もの鉄砲を使ったと伝わりますが、当時の鉄砲はまだまだ未熟で、整列した部隊がきちんと三列に並んで撃つ戦法がとれるとは考えられないのです。
ローマ内戦で、ポンペイウスは味方であるはずのエジプトへ逃れたが、エジプト軍の刺客によって殺害された。
しかしながら、奥平貞昌と亀姫との婚約は、織田信長の命令であり、徳川家康は反対できず、奥平貞昌は妻・於粟(おふう)と離婚した。
我が強くて他人の助言を取り入れず、武功に走るタイプ)であったので、家臣の勧めではなく、自分で決めたのであろう。
しかし織田軍は、騎馬隊に対して3000丁とも言われる鉄砲を駆使し、およそ8時間にわたる激闘のすえ勝利を収めるのです。
その理由として、最強の武田軍に勝つには銃を用いた作戦以外に考えられませんが、あいにく和暦の5月という梅雨の時期で、雨火縄銃の装填には一番厄介なものだったからです。
虎昌が失脚後は山県昌景(やまがたまさかげ)が引き継ぎ、赤備えも継承していきます。