1474年4月、山名宗全(やまなそうぜん)の息子の山名政豊(やまなまさとよ)と細川勝元(ほそかわかつもと)の息子の細川政元(ほそかわまさもと)の間に講和(こうわ)が成立したが、そ の後3年間、両軍のにらみあいは続いた。
こんな理由があったから細川勝元と山名宗全が亡くなっても、将軍がなんだかんだで足利義尚に決まっても応仁の乱は終わることができなかったのです。
清和源氏の系図 南北朝時代に VS の戦いが始まると、新田義貞は後醍醐天皇に味方しますが、山名氏は足利尊氏に味方しました。
同5年3月,持豊が病没し,同年5月に勝元も没した。
長禄の変で赤松郎党が手柄を立てたことにより、赤松政則は細川勝元の支援で加賀半国守護に就任して復権の足掛かりを築き、赤松政則は家臣のと共に義政の警固や屋敷建造、土一揆鎮圧などに努め義政の側近として重用された。
に改元されて後の元年(1467年)4月に細川方の兵が山名方の年貢米を略奪する事件が相次いで起き、足利義視が調停を試みている。
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しかし、西軍は 大内家の参戦によって一気に持ち直すことになるのです。
これが応仁の乱です。
しかし、山名氏は和睦で失った3ヶ国の奪還を狙い、宗全の後を継いだ山名政豊は播磨を伺い、赤松政則も山名氏領国の不満分子を嗾けて反乱を起こさせたため、両者は終結後も3ヶ国を巡り争奪戦を繰り広げていった。
山名宗全は、畠山家の家督争いで京都から出ていった畠山義就(はたけやまよしひろ)を京都に呼び戻し、山名宗全&畠山義就 VS 細川勝元&畠山政長 の対立構図を作ります。
は尋尊が東軍の(左衛門督)をしばしば「左衛門佐」と誤記していることを指摘し、富子が東西両軍に金を貸しているという批判は誤りであるとしている。
当時大内家は 周防・長門・筑前・豊前4ヶ国の守護大名であり、細川家とは 寧波の乱などで日明貿易の主導権を巡って度々争っていました。
京極政光 もちろん、ここで書いた人は主な人物でして他にもいろんな守護大名が参加していました。
京の町を焼け野原にしたのは、実際には東軍西軍の戦いではなく、足軽たちの横行によるのもだったともいわれます。
足利義視は足利義稙を後見する立場になると、 力を持ちすぎた日野富子を弾圧し始めます。
『 西軍』 ・山名宗全 ・畠山義就 ・大内政弘 ・足利義視( 東軍を裏切って 西軍へ) VS 『 東軍』 ・細川勝元 ・畠山政長 ・足利義政 この「応仁の乱」はそれほど大きな衝突もないままに、グダグダ、だらだらと、7年も続いていくのでした。
この戦いについて、小学生の方にもわかるように紹介します。
足利義政は宗全追討を命じたが、細川勝元の嘆願により撤回され、宗全がに隠居することで決着した。
本当の意味での町衆による祇園祭開催が可能になったのは、2年()の幕府の延期命令に対する町衆の反対運動以後と考えられている。
畠山義就• 実際に応仁の乱がはじまった当初も、義政は停戦命令を出すなどしています。
実は彼が将軍に就くことになるちょっと前に将軍が守護大名に殺されてしまうという嘉吉の乱という一大事件が起きていたのです。
弥三郎は死去し、弟の政長と義就の家督争いが始まります。
さらに東軍は大内家をなんとか離脱させたいと、大内家の領国にいた国人という領主に向けて東軍に着くように工作を開始します。
近江・美濃 [ ] 近江国は京極氏と六角氏それぞれが治めていたが、六角氏も幕府の介入でお家騒動が悪化・分裂したためが東幕府の支援を得て近江のを攻撃、高頼は美濃国の斎藤妙椿の後ろ盾で対抗していった。
一方の武田信賢らは京都に留まり西軍と戦った。
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応仁の乱 京都で開戦した26日、西軍は(管領)配下の朝倉・甲斐氏の兵が邸南側の邸を攻めて細川勢と激戦を展開し、東から援軍に来たを返り討ちにした。