一人で行軍を続け、凍死寸前で保護された。
また水野の死亡は通常24日とされる) 青森屯営 [ ] 青森では、天候が前日よりも良かったこともあり、古閑中尉以下40名は幸畑で粥を炊いて帰営を待った。
この際、田村少佐は陸軍省に「生存者12名」と電報を打つが、すぐさま「生存兵卒2、遺体10」と訂正している。
唖然とする神成大尉。
元々1泊2日の行軍を計画していたので、 どうやら最初から本格的な休息は視野に入れていなかったようです。
午前2時半、雪中行軍隊はその暗闇の中を出発するも、すぐに進むべき道が分からなくなる。
三神大尉率いる捜索隊は田茂木野を越えて八甲田山に入った。
1965年(昭和40年)から毎年厳冬期には、青森駐屯ののが八甲田山系での冬季雪中戦技演習を行っている。
山口が死亡したのは2月2日午後8時半であるが、入院後わずか1日で死亡している。
しかし天候は回復することなく猛吹雪が続いている。
経路は「弘前 - 十和田湖 - 三本木 - 田代 - 青森 - 浪岡 - 弘前」間で総延長224km。
2点目は、周囲の病室にいた入院者の中に、本来発砲があったのであれば聞こえたであろう銃声が聞こえたという者が1人もいなかった、という点である。
驚いてそれを聞いた人が外に出てみると、たちまち物音は消え、人の影もない。
4m)掘っても地面に届かず、やむなく雪上にかまどと釜を据えて炊事作業を始めた。
でも、これは、神の視点で当事者を裁いてしまっていることになります。
そこでは手指の摩擦や足踏などに加え、露営ではなるべく「睡眠セザル様注意スベキコト」と指示された。
進むことも引き返すことも出来なくなり、やむ得ず崖をよじ登ることになった。
1月25日になると亡くなった隊員、行方が分からなくなった隊員を合わせると 70名以上となっており、凄惨な状況が窺えます。
薪がなく、火もおこせません。
かろうじて立っている者達も幻覚を見る者達が続出した。
日清戦争後、日本は軍備拡張のため6個師団を新設し、近衛師団を含め、一気に13師団体制にします。
- 近くに幸畑陸軍墓地(雪中行軍隊墓碑がある)、遭難凍死者英霊堂がある。
第2露営地はこの遭難で最も多くの死傷者を出した場所となった。
やがて鈴木少尉も高地を見に行くと言い残し、隊を離れたが、そのまま帰ってこなかった。
それならと、老人は山に詳しい人物を案内に付けると申し出るが、将校らはこれも拒否して老人を追い返してしまった。
- 出発点の第5連隊跡地。
ここまでですでに約40名の犠牲者が出ていた。
自分のミスをきちんと知識化、教訓化すれば、ミスの再発を防ぐだけでなく、質の高い仕事を生み出すのだ。