先代の中門もその折に失われ、今日までなかなか再建叶わずにおりましたが、高野山開創1200年を記念して170年ぶりに、この度再建されました。
弘法大師が唐より帰国される折、明州の浜より真言密教をひろめるにふさわしい場所を求めるため、日本へ向けて三鈷杵(さんこしょう)と呼ばれる法具を投げたところ、たちまち紫雲(しうん)たなびき、雲に乗って日本へ向けて飛んで行きました。
光明真言殿(写真下)は、享和元年(1801)に建立されたもので、興教大師覚鑁上人の像を安置しています。
マスクの着用(未着用の方は入館をご遠慮いただいております。
十代高棟(たかみね)は高福に引き続き、薬師寺の古材を使った茶箱や、洋行に持参した携帯用の茶箱、近代に入ってからの煎茶の茶籠、そして十一代高公(たかきみ)夫人の手造りの小茶籠へと、茶箱と茶籠で三井家の趣味の文化がたどれます。
いしでら 山形市 りんせんじ 米沢市 林泉寺が現存。
展示室4 絵画と茶箱・茶籠 当館で所蔵する三井家の茶箱・茶籠は、北三井家の六代三井高祐(たかすけ) 1759~1838 の時代から始まるようです。
最後は円山応挙の竹図屏風で締めくくります。
しんてらまちしんわりちょう 弘前市 もとてらまち 弘前市 もとてらまちこうじ 弘前市 てらよこちょう 八戸市 天聖寺に隣接。
砂岩や泥岩がマグマの熱により、硬いホルンフェルスに 変成したため浸食に耐え、峡谷を形成しているのだろう。
にいでらきた 会津若松市 もんでんまちおおあざにいでら 会津若松市 たむらまちだいぜんじ 郡山市 大善寺が現存。
たいへいじ 福島市 にしあいづまちてらぼり 会津若松市 けんぷくじまえ 会津若松市 建福寺が現存。
西塔では、大塔の本尊が胎蔵大日如来であるのに対し、金剛界大日如来と胎蔵界四仏が奉安されています。
(地名の方が先の場合もあるかも知れませんが、そこまでは追跡しないこととします) なお、寺院については地図上及びYahoo!電話帳の検索で調べていますが、見逃しがあるかも知れません。
四国と紀伊半島の地質は、主に南方から押し寄せてきた三波川帯、秩父帯、白亜紀四万十帯、第三紀四万十帯などが東西に帯状に広がっている。
熱のこもったボランティアさんの説明が嬉しかった。
しかし、昭和40年代半ば以降、過疎化・高齢化などにより耕作面積が減少。
「(pp. そして天正十三年(1585)、豊臣秀吉の紀州攻めにあい、大師堂、大塔など数棟を残して寺は焼け落ちたそうです。
なお、持国天像と多聞天(毘沙門天)像は二天門であった先の中門に安置されていた像で、類焼をまぬがれてこの度保存修理が完成しました。
自治体名 自治体名 所在地 備 考 こくぶんじし 東京都 武蔵国分寺が現存。
先生の巡検はめっぽう面白い。
修造が終わり、供養のために登山された折、大塔の桜の樹のもとに一人の老僧が清盛の前に現れます。
東(と)しころを住みし所の名にしおへば きよる浪をもあわれとぞ見る この歌は、貫之が土佐泊に寄港したときに詠んだものであります。
当館には約30点の茶箱と茶籠が伝わっていますが、いずれも三井家の歴代やその家族たちが好んだものです。
利休形茶箱の大の方で、桐木地に菊の胡粉置き上げが散らされています。
組み込まれた茶道具は、淀屋金襴手茶碗に建盞という豪華なもので、黒平棗は啐啄斎在判です。
もんぜんじ 盛岡市 いしどりやちょうきたてらばやし 花巻市 いしどりやちょうしょうりんじ 花巻市 いしどりやちょうだいこうじ 花巻市 大興寺が現存。
ほんどうじ 西村山郡西川町 湯殿山神社口之宮は明治時代の神仏分離令以前には湯殿山の別当・本道寺だった。