キリスト教においては、知恵とは知識を超えた最高の知恵、上とされる。
法律制定の知、詩作の知が知恵とされるとき、知恵は万物にかかわる普遍の知となり、すべてのことについて論ずることを教える弁論術の教師(プロタゴラス、ゴルギアス)は最高のとみなされた。
そもそも「感情失禁」とはこういう問題のある言葉なのですが、精神医学領域から周辺に広がるにつれてどんどん意味があいまいになってしまいます。
そうであれば余計に使わないに越したことはありません。
ただし、「強制泣き、強制笑い」と同じ情動調節障害(pseudobulbar affect)が、感情失禁と同じ意味とされることもあります。
人間は世界における多様なものにかかわりながらも、一なる自己である限り、この一なる自己を根拠づけ、意味づける一なる知(=知恵)にかかわらざるをえない。
(保崎秀夫) とあります。
精神医学用語というのはそれぞれ定義があって、その上で精神科のエキスパートならそれが当てはまる典型例を知っているはずです。
字面で何となく分かる気がするのでそういう区別はすぐに曖昧になってしまいます。
たとえば「支離滅裂」 incoherent は統合失調症という診断と切り離せません。
特に悲しくなる状況ではないのにウルウルする認知症の高齢者が感情失禁のモデルでしょう。
私はそれに違和感を覚えます。
それが本人の利益になればよいのですが、ラベルを貼って排除してしまうことを恐れます。
したがって、科学と区別される哲学の存否は人間にとっての知恵の存否にかかわり、人間にとってどのような知恵が許容されうるかにかかっている。
うつ状態ですぐに涙が溢れてくる人も「悲哀的」とは言っても「感情失禁」とは言いません。
それはいっさいのや、現象の背後にある理法を知る心作用で、存在全体の真実相を一瞬のうちに把握する直観知をいう。
精神医学用語にはこういう性質があります。
尿失禁 urinary incontinence が尿をとどめておけず漏れてしまうことと同じです。
世界全体を意味づける根拠にかかわる統一的な知をいう。
これに対して、 躁状態で怒りっぽくなっている人は精神科では「易刺激的(irritable)」と言って「感情失禁」とは言いません。
恵はこの場合慧に同じ。
注 『精神医学事典』(1994年)の「情動失禁」の項目には わずかな刺激で、泣いたり、笑ったり、怒ったりする状態で、情動の調整がうまくゆかない。
これでよいのでしょうか? 精神医学由来の言葉をあえて使うことはマイナスはあってもプラスはないはずです。
西洋哲学史においても知恵は最も基本的な概念の一つであり,キリスト教哲学ではプラトニズムの影響のもとに知恵をの一つに数える。
「怒りっぽい」「涙もろい」「感情の波が大きい」と普通の言葉で記述した方がよい、と私は考えます。
また濱田秀伯『精神症候学』には、 情動失禁では、わずかなことで泣いたり笑ったりするが、刺激と反応の間に内容の関連が一応保たれており、主に老年痴呆、多発梗塞性痴呆など広範囲な脳器質疾患にみられる。
[加藤信朗] 宗教学的にみれば、知恵とは、宇宙・自然の原秩序を洞察することによって、人間の生活を秩序づける精神的能力を意味する。
ただし、専門用語とはいえ日常言語から派生したものです。