その後、7代藩主「 細川治年 ほそかわはるとし」の代まで、明智光秀の血を引く末裔は 熊本藩藩主として君臨したのです。
先祖は、 明智城を本拠地としていた• 細川隆一郎 ほそかわりゅういちろうさん 政治記者、評論家。
ただ、少し述べるとしたら、 昨今の歴史学者は、本能寺の変の研究において「軍記物」から引用や参照することが多く、しかもそれがあたかも定説となり、大河ドラマや時代小説に大きな影響を与えているということです。
嫡男の光慶、十次郎、乙寿丸です。
明智軍記によると、• 見えてきたのは、これまでの定説では考えもしなかった武将たちのスケールの大きさ、驚きの策謀の数々、そしてその裏に潜む人間ドラマです。
その申請は認められ、晴れて「明智」を名乗ることになりました。
前述した私の思い出にも繫がりますが、本能寺の変以降、明智家は苦難の歴史をたどります。
この調査にあたった明智憲三郎氏は頼勝が光秀の実子である可能性を示し、「100%ではないがクリス・ペプラー氏は光秀の末裔と言っていい」と結論付けています。
長く逃亡・潜伏生活を続けていましたが、明治時代になると、私の曾祖父は明智光秀の子孫という伝承が失われないようにするため動きました。
もし、頼勝が光秀と血縁関係だったという説が本当であれば、ドイツ系アメリカ人のハーフであるクリスさんは光秀の末裔だということになります。
こちらは男子については3名のみ。
令和元年十月 明智憲三郎 関連本• 細川護煕 ほそかわもりひろさん 第79代 内閣総理大臣で、肥後熊本細川家の第18代当主です。
お問い合わせは、へ. 細川家に嫁いだガラシャの子孫なので、明智の直系とは言えませんが、光秀の血を受け継いでいることは確かです。
結果、私は本能寺の変と明智光秀という人物の真実に肉薄できたと自負しています。
紆余曲折の歴史を経て、辛うじて残ってきた明智家の末裔たちの伝承を丁寧にすくい取っていくと、朧気ながら光秀の子孫の全体像が見えてきて、徳川とのつながりについても蓋然性がますます高まっていく。
しかし坂本城に由来するとされる坂本姓も偶然と言われており、 この伝承自体が後世の小説家の創作との説が現在は有力となっています。
光秀が居城していた福知山城 光秀のことを語る上で欠かせないのが、江戸時代中期(1688〜1702年)頃に書かれたと言われている「 明智軍記 あけちぐんき」です。
細川忠興とガラシャの長男であった忠隆(ただたか、廃嫡)の子孫で衆議院議員から政治評論家となった 細川隆元(ほそかわりゅうげん)と毎日新聞記者から同じく政治評論家となった 細川隆一郎(ほそかわりゅういちろう)です。
あらゆる当時の史料を読み、そこから浮かび上がる可能性のうち、もっとも 蓋然性 がいぜんせい の高い展開を見つけていくのです。
その群衆がこちらへと迫ってくるという恐怖感。
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『明智軍記』の解明や、藤堂采女家、小田原藩稲葉家と光秀とのつながり、土岐頼芸の子・頼次(小次郎)の長男と次男をめぐる推理など、氏ならではの大変興味深い考察だと思う。
作者や時の権力者の都合のいいように創作された書物を使って、真実を探ろうとすることに意味はないでしょう。
豊臣秀次と連座者の墓所(瑞泉寺境内。