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(導師のみ) 創価学会の教義の基本は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ、御本尊に自行化他にわたる題目を唱えることにあります。
そして、この仏性を自身の生命に顕す作業こそが、唯一、南無妙法蓮華経のお題目を唱えることなのです。
しかし、題目について、世間では少々アレルギー気味の方もいらっしゃるようなので、この機会に、少し基本的なことをお話しておきます。
私達は、その久遠元初の仏様の弟子であるが故に、大聖人様の弟子であるが故に大聖人様の唱えられたその大聖人様の弟子であるが故に、大聖人様の唱えられた御題目を、大聖人様の御精神にのっとって、積重ねて行くということでございます。
「南無」は梵語(インドの言葉)を音訳したもので、意訳すると「 帰依 きえする」等と訳されます。
(複数で勤行を行う場合は、全員で唱和します) 日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布を現実のものとした仏意仏勅の教団に連なっていることを自覚し、各自の誓願として「世界広宣流布大願成就」と「創価学会万代の興隆」を祈念します。
大聖人は『秋元御書』という御書の中に、 「三世十方の仏は必ずの五字を種として仏になり給へり」(全一〇七二) ということを仰せになっていらっしゃいます。
じつは、この念仏による修行の方法は、ある意味で、滝に打たれるなど、はっきりした形のある荒行よりも難しいことかもしれません。
日蓮の布教活動やその一生については 「法華経の行者日蓮」(姉崎正治)に詳しいですが、たぶん仏教学の基礎のない人には、いきなり読んでも分からない言葉が多すぎると思いますので、山岡壮八の「日蓮」ぐらいをお勧めしておきます。
そして、在宅の時には、出来るだけ御本尊様の御前で唱えます(あたりまえ!)。
清澄でこの時になした日蓮の行動は、 あくまでも「自分は法華経の行者として生き、法華経の広宣流布に勤める」という宣言であり、自らの名を冠した独自宗派を起こしたわけではありません。
そこから転じて、 「建前、名目」などの意味を持たせて使うこともあります。
法華の修行の中で、なぜ、お経を上げる前後に、題目をたくさん唱える唱題行というものがあるのでしょうか。
すなわち、「南無妙法蓮華経」は「私は妙法蓮華経に帰依します」または「私は妙法蓮華経を信仰します。
また、実際に筆者自身も経験し、筆者の周囲にもこれを実践した人やしている人はいらっしゃいます。
題目根本に唱題しきっていく姿勢が如何に尊いか、また、最強無敵であるか。
大乗経典の根本経典とされる法華経に帰依し、法華経の中に書かれていることを書かれた通りにしようというのは、当たり前のことです。
高齢化の進行も関係しているのか、最近では、かなり早口にお題目を唱える人や、ペースの速い唱題会も見かけなくなりました。
これが筆者の基本スタンスです。
題目をうんとあげなさい。
誰がどう言おうと何をしようと題目にはかなわないのです。
苦しいことだってある。
つまり「南無妙法蓮華経」とは、「妙法蓮華経に帰依します」という意味です。
そして、今の筆者自身、やはり、題目が少ないな、と感じている時は『数』ということにも意識はしています・・。
妙法蓮華経は文字数にして、全部で 69,384文字(およそで七万文字)のお経です。
君自身がどれだけ題目をあげたかということでしょう。
その決意の手始めとして、まず第一に両親に内輪で説法をして法華経信仰に一緒に帰依させ、次に清澄寺に於いて初転法輪(輪がどこまでも転がっていくように、教えを世の中に広めること)を行ったというものです。
助行とは、正行を助ける行という意味です。
しかし、一切の勝利の源泉、福運の源泉は題目にある。
てに備わる「仏の心」を信じ、この「南無妙法蓮華経」のお題目を口に出して唱えることで、自分のなかにある「仏の心」をも呼び現していこうとしているのです。
『是を信じて一遍も南無妙法蓮華経と申せば法華経を覚て如法に一部をよみ奉るにてあるなり、十遍は十部・百遍は百部・千遍は千部を如法によみ奉るにてあるべきなり、かく信ずるを如説修行の人とは申すなり(御書全集411頁・十如是事より引用)』 この仰せでは一遍題目の重要性に触れられていると拝されます。