」 秋帆はびっくりしました。
不幸中の幸いだったのは、鳥居の後ろ盾となっていた老中の水野忠邦が、天保の改革に行き詰まって失脚したことでした。
元年()に『歩操新式』等の教練書を「秋帆高島敦」名で編纂した(著者名はで、秋帆は監修)。
募金により紀功碑が建つ 松月院にある「高島秋帆先生紀功碑」 東京都板橋区赤塚にある松月院には、秋帆の功績をしるした「高島秋帆先生紀功碑(別名・火技中興洋兵開祖碑)」が建てられています。
私は国内の小さな争いや見栄のために、砲術を学んだのではございませんので、すべてお断りいたしております。
10 11 12 13 10 西洋砲術の先生・高島秋帆 (たかしま・しゅうはん) 高野長英のことで、つい話が先へいってしまいました。
これにより幕府の流砲術採用が決まり幕臣,のふたりに高島流を皆伝して長崎に帰ったところが,かねてからを蛇蝎のごとく嫌っていた幕府町奉行によって天保13年謀反の罪を着せられ,投獄される。
この後、秋帆は幕府に仕え講武所教授方頭取、講武所奉行支配などをつとめ、慶応2(1866)年、69歳で没した。
逮捕されてから3年間は小伝馬町の牢に入っていたようです。
後世への影響 [ ] 秋帆が日本語の「号令」を用い、それが明治以降の軍隊や学校に受け継がれたと言う人がいるが、オランダ人は秋帆に「軍事用語は必ずオランダ語を使うこと」を条件に西洋砲術を教授したので(これはオランダが日本への影響力を強めるための施策であったが)、秋帆は日本人の美徳として師の命令を厳守し、門人に対する号令は全てオランダ語で行っていた。
卵、砂糖をいれた長崎のパンというのは、おそらくカステラのことでしょう。
また、四郎兵衛は幕府から派遣された荻野流砲術家・坂本孫之進に学んで砲術師範となっていました。
参考文献 [ ] 日本語 [ ]• 辛うじて死罪を免れた秋帆でしたが、幽閉されたまま長らく捨て置かれてしまいます。
そこで秋帆は、実戦経験のあるオランダ人から直接話を聞きオランダ語や洋式砲術を学びます。
****************************************. たとえば、和式砲術の伝統を受け継ぐ幕府鉄炮方は、異国の銃砲は日本に馴染まないと主張しました。
そんな清と日本を重ね合わせ危機感を覚えた秋帆は、今後予想される外国との戦いのために、外国砲術を把握し火砲を近代化するよう訴える『天保上書』を書き上げました。
しかもその装備も下のような状況ですので、大名並の兵力を有していたとも考えられます。
そしてその報告を見て、起訴状をでっちあげたのでした。
また、秋帆の出身身分が武士と庶民との中間層だったことに露骨な嫌悪感を示す人々もいました。
しかし、それにしても厳しい処分でした。
幕府の代官ともあろう者が、みだりに長崎の砲術家に弟子入りしたとなると、幕府の威厳にかかわるというわけです。
「評伝高島秋帆」(石山滋夫著)によれば、高島秋帆が長崎の知人に出した手紙には「此の陣屋四方に松杉茂り、その内に竹垣をめぐらし、又板塀を廻し、家の内に囲いを作り、 二寸角のものを次の間に、或いは縁先は一寸三分位のものにて荒格子でございます。
しかし、このパン窯は、炭焼き窯と同じほどの大きなもので、すぐにその場で作るわけにはまいりません。
諸藩を統制する幕府としては、諸藩よりも優れた軍事力を保有すべきでしたが、それを得るためには洋式兵学という新しい学問を修得する努力が必要です。
信勝の遺領を受け継いだ嫡男・信盛は、上杉景勝討伐や大阪の役で功を挙げ、大番役などの役職を勤めました。
徳丸原での調練の翌年、高島家は断絶とされ、秋帆の身柄は武蔵国岡部藩に預けられました。
第4回「栄一、怒る」では…。
ところが最近、九州諸藩より、しきりに入門の希望がまいります。