大正13年()8月20日 - 陸軍歩兵に進級。
何故なら、日本ほど人種的偏見のない民族はない」. 松岡自身はこの2年前、満州国とソ連との国境近くにあるオトポール駅での事件でユダヤ人救済に協力していました。
日本側は停戦交渉を行いましたが、ソ連は応じず。
商工倶楽部は人々で埋め尽くされます。
樋口は、人道的立場からユダヤ人に食料や燃料を給し、日本政府と軍部を説き伏せて、ユダヤ人の満州国通過を認めさせた硬骨漢でもあったのだ。
日本側は停戦交渉を行いましたが、ソ連は応じず。
ソ連軍がサハリン島(樺太)北部から、日本領である南部へ攻撃を始めたのは1945年8月11日である。
1937(昭和12)年12月、ハルビンで第1回極東ユダヤ人大会の開催。
ヨーロッパのある一国は、ユダヤ人を好ましからざる分子として、法律上同胞であるべき人々を追放するという。
。
「樋口君、あなたの話はもっともである。
そして樋口に対し、ユダヤ人が世界中で迫害されている事実と、日本のこそがユダヤ人が悲しい目にあった時に救ってくれる救世主に違いないと涙ながらに訴え祈りを捧げた。
まずビザ発行のことです。
しかし、8月18日未明、ソ連軍が占守島へ上陸。
西洋人との社交界での付き合いを苦手とする日本人も多いなか、樋口一流の柔軟さが見て取れる逸話です。
こうして、樋口の戦後が終わります。
私は言葉を継ぐこともできません。
樺太柳の将棋盤の裏面に書かれた、俳句 「樺太に玉とむれなお輝るやなぎ 季一郎 昭和卅八年五月四日 於大磯」 昭和38年当時、樋口は神奈川県中郡大磯町に在住。
またビザをもらえなかったユダヤ人はまだまだ大勢いましたが、その後彼らのほとんどが殺されたようです。
ここはホトコーストの犠牲者を追悼する所であり、ユダヤ人を救った外国人を讃えるための記念館なのです。
この場に集ったのは日本、上海、香港などアジア各地在住のユダヤ人。
ポーランドに残した家族・・・4人の兄と姉、23人の家族は皆ナチスに捕らえられ『死の強制収容所』へ送られたのです。
列車が停車すると、救護班の医者がまっさきに車内にとびこみました。
それに迫ろうとするときに、非常に価値ある大切な「歴史の素材」となるべき人物がいます。
しかし人員整理による解雇の記録は残っているようです。
著書に『戦争民営化』(祥伝社)、『国際テロファイル』(かや書房)、『「極東危機」の最前線』(廣済堂出版)、『軍事同盟・日米安保条約』(クレスト社)、『熱風アジア戦機の最前線』(司書房)、『「逆さ地図」で読み解く世界情勢の本質』(小社刊)など多数。
アブラハム・カウフマン 反ナチの闘士でもある博士は、こう樋口に語りかけます・・・・。
そして、米軍の反転に伴い、この両島は急遽日の目を浴びることになります。
(樋口季一郎記念館提供) おわりに 以前、、樋口のことを知り、このような軍人がいるのかと正直驚きました。
「ヒグチルート」と呼ばれています。
また1945(昭和20)年、終戦後に関わらず千島列島の占守(しゅむしゅ)島に侵攻したソ連軍と戦い、北海道を守りました。
さてこれをどのように解釈しましょうか。