先に述べたように、肥後細川家の系図上の子孫に、第79代の内閣総理大臣・細川護熙氏がいますが、血縁上では、関白・近衛前久の子孫です。
夫である津田信澄は、織田信長の家臣として活躍した。
「フロイス日本史」によると、九州から帰ってきた細川忠興は、 以前より、残忍で悪辣な異教徒になったと書かれています。
光秀が信長の覚え目出度く丹波攻略の拠点として亀山城を築城している頃に光秀の書状に「光慶」の名前が初めて登場します。
細川忠隆は、細川忠興に咎められ、千代と離縁をして、前田家に追い払うよう命じられます。
次男のほうはよくわかりません。
一般的に光秀の妻は妻木熙子のみ、といわれていますが、そこに関しても、 ・前室がいた ・側室がいる などと入り混じっています。
三女多羅は臼杵藩主稲葉一通の正室となります。
「自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻と共に死ぬように」 石田三成は、徳川方についた 大名の妻子を人質に取って、動きを牽制する計画を実行します。
光秀の系図については、各種伝わっており、子供のことも書かれている。
信長の次男信雄の末裔が治めたとされています。
頼勝が光秀の実子でなかったとしても、光秀も土岐氏の支流・明智氏の出身。
そして、上の子は13歳だったとあり、これを信じるならば、前述の光慶がそれに当たるのではないかと思われます。
悲劇の女性とその子孫 夫人として有名な(玉子、1563~1600)。
また、吉田兼見が明智煕子の病気のお見舞いで、 の宿所も訪問した記録が残っています。
本能寺の変の前月に開催された蓮歌会、所謂「 愛宕百韻」にも参加し、 「国々は猶のどかなるころ」 と、下の句を詠んでおります。
光秀の妻(光秀正室妻木氏はこのころには亡くなっていたともいわれていますが……光秀の側室?)と子は、坂本城落城の際にことごとく死んだ、と言われています。
親族の流れにあることは確かなようです。
つまり親が兄妹なので、光秀と濃姫はいとこの関係になります。
系図などの二次史料に頼るのではなく、一次史料にあらわれる光秀の子供を調査するのが重要なようである。
檀那(だんな)・・・特定の寺院に属して、その経営を助ける=布施をする人です。
1600(慶長5)年、石田三成方の上杉氏を討伐するため、徳川家康は、会津に向かいます。
明智光秀の正妻は妻木煕子です。
しかし、細川藤孝・忠興父子は光秀には与せず、また光秀は山崎の戦いで秀吉に破れ滅んでしまいます。
土佐の戦国大名・長宗我部元親の室は明智光秀家臣・斎藤利三の異父妹(義理妹とも)でした。
多くの子孫の家系は、もしかするといまだに明智を名乗れないまま別の姓で生きているのかもしれません。
それに連座したのが秀次の妻子ら39名でした。
光慶の生年は不詳であり、永禄12年(1569)誕生説もあるが、明確な根拠はない。