衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。
四代目の泰衡の時、文治5年(1189年)源頼朝に滅ぼされる。
美しい日本の風景に侘びやさびを詠みこむ作風は「蕉風」とも呼ばれ、独自の世界を切り開いていきました。
今は荒れ果てた草むらとなっていても無理は無いのだが、金色堂の四面に覆いをして、屋根を覆い風雨を防ぎ、永劫の時の中ではわずかな時間だがせめて千年くらいはその姿を保ってくれるだろう。
清衡は浄土思想を唱え、この平泉に、中尊寺や毛越寺(もうつうじ)をはじめ、数多くの寺院や宝塔を建立し、これら建築物や庭園の一群が世界遺産へと登録されました。
新緑がまぶしい初夏のこの時期、芭蕉の足跡を追って、世界遺産の平泉を訪れてみてはいかがでしょうか。
この「の」が「が」になった事で読み手は泣きたい程の良さを感じるのです。
納め=マ行下二段動詞「納む(おさむ)」の連用形 安置す=サ変動詞「安置す」の終止形。
秀衡(ひでひら)が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。
中尊寺の月見坂 金鶏山を左に見ながら 国道沿いに進んでいくと、 すぐに中尊寺です。
迫力です。
五月雨の 降りのこしてや 光堂 (意味)全てを洗い流してしまう五月雨も、光堂だけはその気高さに遠慮して濡らさず残しているようだ。
打消と間違えないように注意!古文で「秋は来ぬ(きぬ)」と言えば「秋は来た」の意味。
秀衡の館の跡は田野となり、その名残すら無い。
藤原清衡のミイラがある。
【夏草や 兵どもが 夢の跡】 人気のないところに、今はただ夏草だけが生い茂るばかりだが、 ここは、かつて義経主従や藤原一族の者たちが功名・栄華を 夢見たところである。
「夏草や兵どもが夢の跡」の鑑賞文 芭蕉は平泉の城跡に立ち、藤原三代の栄華と源義経の最期に思いを馳せたことでしょう。
背中には七つ道具をしょってます。
この句からは栄華を極め、無残にも果てた者たちを偲び、供養や鎮魂とも取れる心情が感じ取れます。
東物見(ひがしものみ)と西行の句碑 義経主従のことにしばし感慨にふけりながら 弁慶堂を出ると、目の前にはすごく開けた、景色のいい、 坂の下を見渡せる東物見という場所があります。
「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠うち敷きて、時のうつるまで涙を落としはべりぬ。
例:「音す」、「愛す」、「心す」、「御覧ず」 経堂は藤原氏三代の将軍(= 清衡 きよひら 、 基衡 もとひら 、 秀衡 ひでひら ) の像を残しており、光堂はその三代の棺を納め、三尊の仏像を安置している。
芭蕉といえば「旅」のイメージが強いかもしれませんが、実は日本各地を訪れるようになったのは 40歳を過ぎてからでした。
しばらくの間は遠い昔をしのぶ記念物となったのである。
一炊の夢。
「無住寺や」とや切れになっている事で、とっぱなから寂しくも詫びしい情感に引きずり込まれて「坂にかりんの実が転げ」と、人が住んでおれば見られない情景に読み手もその寂廖感に同化するのです。
曾良 かねて耳 驚かし たる二堂 開帳す。
「」の章で和泉三郎寄進の宝燈を芭蕉は見ている。